パン作り奮闘記.第六章

1.理想の材料
 厳密に言うと、パンは毎日同じものができません。とてもいいパンができる日もあればそうでもない日もあります。もちろん一定のレベルには達しているとは思いますが、それは微妙に違います。
 毎日の気温、湿度が違いますし、全く同じ材料をそろえることはできません。その微妙な違いを水の温度や量、それから捏ね具合で調節します。はじめの頃に比べるとそれは少なくなりましたが、未だに失敗することもあります。失敗するときは何日か続けていいパンが焼けた後に突然やってくることが多いようです。いいパンが焼けるという自信が過信を呼び注意力が散漫になったり、どこか気が抜けた仕事をしてしまったときや、もっと美味しいパンを作りたいという意欲や新しい工夫が裏目にでてしまうときです。まっ、パン作りをしている限り一生続くのでしょう。
 私のミスで失敗するのは納得できるのですが、それが材料の品質に起因するものにはちょっと腹が立ちます。まず、小麦の品質が一定ではありません。もちろん、同じ製粉会社の同じ粉を使っているのですが粉に含まれている水分はもちろんのこと捏ねるとグルテン化するたんぱく質の量も微妙に違います。でも新しい袋に手をつけるときにちょっと注意すれば差しさわりのない程度ですから、そう問題ありません。しかしこの仕事を始めた頃はそれがわからず随分悩みました。作業過程のどこでミスをしたのかを探るのに相当時間を費やしました。今となっては懐かしい思い出ですが当時はこんなことで何時になったらパン屋としてやっていけるのか不安になったものです。
 小麦については何れ腰を落ち着けてじっくり書かなければならないことが山のようにあるので今回はこのへんにしておきます。
 パンに入れているレーズン、昆布、白エビ、これらも農作物と海産物ですから作柄やイキの良し悪しで品質が違いますし、厳密にいうと加工の過程でもその差異はあります。レーズンの乾燥具合などはかなりいい加減なもので残っている水分量はだいぶ違います。昆布は残っている塩分量はまるで違うので新しく仕入れた場合は試し焼きをしてパンに加える塩の量を調節しなければなりません。
 これがシュトレンともなると生地に練りこむ材料は20種類くらいあるので、それらの品質を一定のものにそろえるなんてとうてい不可能です。中でも一番品質が違うのはマカデミアナッツです。全く同じものを注文しているのに、大きさはもちろんのこと味は違うし取れたてのものが届いたりそうでないものがきたりで
びっくりしてしまいます。
 いい材料を入手するのに随分いろんな海産物卸業者やパン菓子の材料卸の業者を回りました。変なものが届いたときにはその業者にでかけて小うるさく注文を出しています。しかしこれも限界があり、ほんとうに納得できる材料を集めるには、自分で作るしかないのかもしれません。何れ時間的余裕ができたら小麦作りからやってみたいと思っています。
 とりあえずは、それができない以上卸業者に品質の良いものを持ってきてもらうしかありません。


2.お客様の声
 それは一昨年暮れのことです。シュトレンの注文が12月25日を過ぎても途切れず、大晦日の31日まで作っていました。やっとこの年最後のシュトレンを作り終え、後かたずけをして夕闇迫る頃、シャッターを閉めていたら背後から近所のおばさんに声を掛けられました。明後日、プレーンを二個欲しいと注文されたのです。正月は休むつもりで3日まで注文は取っていませんでしたので二個のパンのために釜に火を入れなければなりませんし、2日に焼くということは元旦に仕込まなければなりません。ふだんは神様に見えるお客様も、やっと少し休めるとホッとした矢先でしたから鬼のよう見えました。申し訳ないことですが丁重にお断りしました。
 それから数日経ったころだったでしょう。一日の仕事を終え工房から出た時、例のおばさんがまた注文にみえました。明日の朝10時にプレーンを6個欲しいとのこと。それぞれの種類に2,3個の余裕はありますが、同一種類6個はちょっと無理です。それに朝10時に欲しいといわれてもできません。
 我工房の場合、朝一番の仕事はルヴァン三世とザワータイクの掛け継ぎ作業と翌日の仕込み生地を作ります。これに一時間半はかかります。それから当日焼く分のミキシングにかかります。焼きあがるまで約6時間かかり、袋に入れられるくらいに冷ますのにさらに1時間。逆算すると午前1時半には仕事を始めなければなりません。我工房があるところは家が密集した住宅街で両隣はピッタリくっついています。そんなところで夜中にゴンコロ、ゴンゴロ、ミキサーを回す訳にはいかないので、これも丁重にお断りしました。
 このようにどうしてもお客様のご希望に添えない場合もありますが、お客様の要望がそのまま我工房のヒット商品になった例もあります。板チョコ入りのショコレンBがそれです。チョコチップ入りのショコレンのAは私が考えたものですが、Bは「中に板チョコの入ったショコレンを食べてみたいな」という声に答えたものです。
 シュトレンの中心にマジパンを棒状に入れたものがあるくらいだからチョコレートでもおかしくないなと思ったので作ってみました。幸い、我工房のシュトレンはローマジパンをバターのクリーミング時に練りこんでいるので中心には芯になるものが無いので板チョコはすんなり入ります。成形した時点でこれはいけるという確信がみたいなものがありました。今やシュトレンAよりもBのほうが遥かに人気があります。
 お客様の要望にはできうる限り応えていきたいのですが、普通のパン屋ではあまり扱わない商品をウリにした特殊な所謂、狭間産業なので必然的に要望に応えられないことの方が多くなってしまうので少々悲しい思いもします。
 しかし、結局のところ多くのお客様の要望に応えるということは、限りなく平均化した味にするか、あるいはとても多くの商品をそろえるかのどちらかになってしまいます。少しでも多くのお客様を取り込もうとするとチェーン化した大手のパン屋がやっていることと同じことをしなければなりません。
 我々は大手のパン屋とは違う土俵で勝負しなけば勝ち目がありませんし、そもそも私が居る土俵の方がパン屋として本来あるべき姿に近いと思っているので、いつも勝負に勝ったような気になっています。


3.チョコレート
 バレンタインデーが近づくとチョコレートの在庫を切らさないように注意が必要です。バレンタインデー直前までは大丈夫なのですが、その後は極端に品薄になります。材料屋さんはもちろんスーパーやデパートの手作りお菓子の材料を販売するコーナーまで、チョコレートの材料がなくなってしまいます。そのため、昨年はバレンタインデー以後しばらくショコレンが作れなくなってしまいました。
 それにしても、バレンタインデー用のチョコレートは美味しくないですね。通常は美味しいチョコレートを作っている店でもバレンタインデー用のものはマズイですし、大手の菓子メーカーのものでもバレンタインデー用は質が落ちます。私はけっこうひどいチョコレートを食べた経験が何度もあります。ちなみに義理チョコですが。昔、駄菓子屋で売っていた一度も聴いたことの無いメーカーの色と香りは確かにチョコレートなのですが食感も味もとてもチョコレートとは思えないものや、知るひとぞ知る虫下しのチョコよりマズイものまで、吐き出してしまった経験が何度もあります。この時期、チョコレートが品薄になって質が落ちるからでしょうか。なんとなくそれだけではないような気がします。
 チョコレートをもらった人は美味しくなくてもマズイとは言えないですし、日ごろチョコレートをあまり食べない男性はチョコレートの味はこんなものかと思っているところもあます。それに豪華な包装と高い値段に騙されて、これが高級な味かと勘違いしがちです。
 なによりも基本的にチョコレートを買う人はチョコレートを食べないところに問題があるような気がします。自分の買ったチョコレートが値段が高い割にはあまり美味しくないことを知れば、きっと腹が立つと思います。
 ともあれ、バレンタインデーの主役はチョコレートではなくてチョコレートを贈る行為つまり、乙女の心を相手に伝えることにあるのですから、味などどうでもいいのかもしれません。やれやれ。 


4.食品衛生法
 現在の食品衛生法は「生類憐みの令」に匹敵するくらいの悪法だと思っています。近々、改定されるようですが、それとて肝心なところが骨抜きになったものに違いありません。
 本来、食品衛生法は食品を口にする消費者の保護を第一に考慮されなければならないはずです。ところが、この法律は製造者(大規模な)を
保護するための法律のようなところがありす。しかしこの法律が悪法である所以は別なところにあります。
 それには製造者が食品を製造するに当たり課せられた義務や指導が細かく記載されていて、一見、立派に見えます。しかし、それに違反した場合の規定がなかったり、罰則があっても極めて軽いものです。でしたら規制や罰則を厳しくしたらいいのですが、それでも片手落ちだといわざる得ません。 
 何が一番いけないかというと、食品衛生に関するシステムそのものと、この法律が役所の都合を第一義にしていて、消費者の保護も製造者の義務もあったものじゃありません。役所の立場と権威を守るためのもので、何か不都合なことが起きた場合、役所に責任が及ばないように法律が作られています。泥棒が泥棒の刑法をつくるようなもので、役所が役所の立場を危うくする法律を作るはずがありませんから。責任の所在を極力曖昧にぼかし、オブラートに包まれたようになっています。
 我工房にも年に二回保健所から査察、指導にみえます。ご苦労なことです。ところが、これは役所の勤務時間内で回れる範囲だけで、夜間しか営業していない飲み屋などは何故か査察に行かないようです。何十年営業していても一度も保健所からお役人さんが来たことが無いという店がいっぱいあります。変でしょ。 でも、お役人さんが悪いといっているのではありません。悪いのはシステムそのものです。
 細菌、ウィルス、食品添加物、などに関しての対処は確立されていますが、環境ホルモンなどのように新しく問題視されてきたものに関しては全く対処できていません。前例が無いことにはきわめて弱い役所のシステムが禍しているのでしょう。
 卵には5千個に一個くらいの割合でサルモネラ菌が入ったものが存在するそうです。これは熱を加えることで菌は死滅します。しかしその毒素は熱を加えてもなくならないそうです。その毒素でおなかを壊した人が発生した場合、いったい誰にその責任があるのでしょう。
 卵の生産者、それを販売した人、その卵を使用してお菓子などの食品を作った人、それを販売した人、それを食べた人、保健所、いったい誰が悪いのでしょう。
 ともあれ、サルモネラ菌の入った卵が市場に出回らないように出荷前の検査システムさえあればよいのですが、検査する技術がないのでしょう。未だにほったらかしです。
 早いうちに食品衛生に関するシステムそのものを変えなくては、昨今メディアを騒がしていた牛肉偽装問題やら品質保持期限のごまかしなどはなくならないでしょう。


5.小麦.上
 これほどこだわったパンの作り方をしているのに、どうして国内産小麦を使わないんですかと質問されることがよくあります。その度に答えに困るのですが、その理由は三つほどあります。
 私が目標としている理想のパンに適した国内産小麦が見つからないというのが第一の理由です。
 国内産の農林61号やハルヒカリ、はるゆたかなどは一長一短あって、単独では使えないのでブレンドしてみました。はるゆたかの淡白さを補うのに、わりと味の良い農林61号を多く加えると、ちょっとパワー不足でだれた生地になってしまいます。農林61号を少なくすると淡白になり、イマイチ。そこで、農林61号の量を減らさずに水分を少なくしてややかために生地を仕上げると、まずまずなのですが、私が考えているパンとはやや違うものになってしまいます。
 このように入手可能な粉を集めてブレンドし始めるときりがありません。塩のときもそうですが、五種類の粉で様々の分量を試しているとその種類は天文学的数字になってしまいます。明けても暮れてもまともな生地ができず、理想のパンから遠ざかる一方で暗い気持ちになってしまいます。まだまだ研究の余地はあるのですが、取り合えず国内産小麦のブレンドは中断して今後の課題ということにしています。
 国内産小麦で強力粉の優等生はるゆたか、薄力粉の優等生チホクというふうに小麦の銘柄による質の違いがあります。これとは別に、日本の大手製粉会社では取り分け挽きをすることによって一種類の銘柄から薄力粉に近いもの、中力粉、全粒粉を取り分けます。最初に粉砕されるやわらかい中心部分の胚乳が粉になります。これを一等粉といって薄力粉に近く、お菓子などに使われます。さらにふるいにのこったものを挽くとグルテン分のやや高い中力粉に近いものができ、うどんなどの麺類に使用されます。これが二等粉です。さらに残ったふすまもいっしょに挽いたものが全粒粉といった具合です。
 私としては外国のように単挽きのものが欲しいのですが、日本ではそうもいかないようです。微妙な食感や舌触りを気にする口の中がデリケートな日本人は麺にした場合ちょっとした粉の違いも感じてしまうようで、製粉所では取り分け挽きせざる得ないようです。
 第二番目の理由は、安定して入手するのが困難な点にあります。日本では元々そう作付面積の多くない小麦は天候不順で不作になるとたちまち供給不足になります。粉がなくて焼けないという状況は避けたいパン屋としてはやはり使用に踏み切るには躊躇してしまいます。
 一口に国内産小麦といってもピンからキリまであります。小麦栽培に不慣れな農家が作った出来の悪い小麦や天候不順による質の悪い小麦も国産です。国産というだけで価格は北米産の倍はします。美味しくないものが国産というだけで倍の値が付くのはちょっと矛盾を感じます。
 三番目の国内産小麦を使わない理由は商品表示に嘘が多く、国内産小麦と明記してあっても全く信用できないからです。
 昨今、商品表示の不正やごまかし問題がメディアで騒がれていても、有機栽培、無農薬、国内産の表示に嘘が目立ちますし品質保持期限のごまかしは常識です。
 その最も顕著な例は米にみられます。先般行われた東京都の検査で銘柄のごまかしは20パーセントちかくもありましたし、品質保持期限の切れた古い米を新しいものに混ぜて売っているのはそうとう見つかったそうです。さらに、新米と表示されていてもほとんどの場合は古米が入っていて、ちゃんと新米が入っているのは15%しかなかったそうです。産地表示ともなるとまるであてにならないようです。新潟県魚沼産のコシヒカリは実際に生産された量の百倍位の量が流通しているといいます。嘗ては米が貨幣と同等の扱いをされていました。その食品ですらこのありさまですからなさけないものです。
 お茶にしても、鹿児島産のお茶でも静岡で加工すれば静岡茶として売られていますし(今年から50%以上静岡産のものが含まれていなければ静岡茶と表示できないらしい)、肉類の産地のごまかしも後を絶ちません。
 国内産、有機栽培小麦という表示があっても全くあてになりません。悲しいかなこれが現実です。
 ですから国内産小麦のブレンド実験をしていても、本当に国内産なのだろうかとか、銘柄は確かなのだろうかと疑い始めると疑心暗鬼になって実験が無意味に感じてしまいます。
 以上が国内産小麦を使っていない主な理由です。


6.小麦.下
 我工房では北米産の小麦を使用しています。パン業界でフランスパン専用粉と称している強力粉に薄力粉を加え、ヨーロッパ産の小麦に近いグルテン分に調整したものです。
 本来ならば、そんなややこしい粉を使うより、ヨーロッパから輸入すればいいのです。ところがフランスなどの南ヨーロッパでは品質の良い小麦は自国で消費され、輸出には品質の良いものがあまり出回らないようです。ですから、日本のほとんどのパン屋はリーンなパンを焼くときにこのフランスパン専用粉を使っているのです。
 フランスパン専用粉はメーカーがナポレオンやらモンパルノやらとフランスに関する人名や地名などの商品名を付けて販売しています。ご立派な商品名ばかりが目立ち、肝心の小麦に関するデーターが少なすぎます。どんな品種の小麦か分かりませんし、ミネラル分の含有量が分かりません。グルテン分がどの程度か公表しているものもありますが全くないものもあります。日本の基準に当てはめると準強力粉くらいのグルテン分だとか、準強力粉と強力粉の間くらいだろうというひともいます。
 ともあれ、日本の小麦の基準は薄力粉、中力粉、準強力粉、強力粉くらいの違いでとても曖昧です。
 ドイツではタイプ番号が付いています。このタイプ番号の数値は小麦に含まれる灰分量をあらわしています。つまり粉を燃やして残った灰の量で、ミネラルの量をあらわします。ですから、胚乳から外に向けてどの程度挽いたかのレベルをあらわしているわけです。
 たとえばタイプ405、550、812、1050、1600といった具合です。この数値は100g中に含まれるミネラル含有量とうわけです。タイプ405ですと100g中に405mgのミネラルが含まれていることをあらわします。
 ドイツのスーパーで売っている小麦はこのタイプ番号でその用途が分かるようになっているようです。家庭用精白粉(タイプ405)、白パン用(タイプ550)といった具合に使用目的に合わせて選ぶことができわけです。
 日本の小麦の歴史は大部分がうどん粉としてのものです。小麦をパンに使用するようになったのはつい最近のことです。日本にひろくパン食が定着するにしたがってグルテン分が多く価格の安い北米産が大量に輸入されるようになりました。その過程で広く日本各地で栽培されていた名もない地麦が消えていきました。そういう地麦にひょっとしたらパンに適したものあったかもしれないという思いがあります。今でも日本のどこかで細々と栽培されているパンに適した地麦を見つけ出して自分で栽培し、パンにしてみたいと思っています。
 小麦の大部分をうどんにして食べていたころは強力粉が必要なかったこともありましょぅが、日本の土壌が強力粉になる小麦を育てなかったのでしょう。そんな事情を考えるとパンに適した小麦を見つけ、自分で栽培した名もない地麦からパンを作ってみたいという夢は夢で終わるかも知れませんが、なんとか成就させたいもです。


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