パン作り奮闘記第三章

1.一人総合建設会社
 作業で屋根裏に上がり柱や梁を見る度に不安になりました。何時潰れるかわからないような所を改造してよかったのだろうかと。もし今年の冬大雪にでもなったらひとたまりもないような気がしてきます。いくら補強工事しても無駄じゃないかと思ってしまいます。そのたびに、もう賽は投げられたのだ後戻りはできないと自分に言い聞かせては作業に取り掛かりました。
 法律上問題があるので電気工事と配管の作業はできませんが、土方に左官、建具屋、大工とすべての職方を一人でやりました。しかも今時電動工具なしで。といっても、電気を引いていなかったからなのです。仮設の電源をつけてもらうこともできたのですが、仕事をしながらこんな時電気があったらなあと思います。しかしその局面を打開してしまうと電気工事屋さんに電話するのが億劫になってそのまま仕事を続けてしまいます。借りてきた電動工具が幾つもあり、使えば速く、正確に、簡単に、綺麗にできるのに何故か汗をかきかき手作業でやってしまい、困った性格だなあと自分が自分にあきれてしまいます。結局全体の八割は手作業でしてしまいました。
 セメントの堅さをどのくらいにすれば綺麗に仕上がるかとか、ペンキ塗りのこつや、のこぎりで木を真っ直ぐに切るこつなど、それぞれの作業のこつをのみ込み、上手にできるようになった頃にそれぞれの作業か終わってしまい、もうちょっとしてみたいような物足りなさを感じました。やがて店を構えられるようになったら是非自分で店を作り、石釜も自作したいと心に決めました。


2.修行
 道具と材料を仕入れ、いよいよ修行が始まりました。まずはテーブルロールと菓子生地を捏ねて数種類のパンを焼いてみました。レシピどおりにやったら難無くでき、味もまずまずでちょっとあっけなく感じました。ただ、初めてホイロを使ってみて、温度や湿度が設定した値と実際の温度、湿度が全く違うのでちょっと苦労しました。今後この機械を使っていくにあたって上手く使いこなすには、様々の条件下で設定温度、湿度と実際の温度、湿度の違いがどのように推移するか観察し、データーを取る必要がありそう。
 その後食パンやブリオッシュなどリッチなパンを何種類か作ってみました。食パンは角ばったり腰折れしたりパンの耳が分厚くなったりと何度か失敗しましたが、何とか無難なものができるようになりました。
 この頃になると、それまであまり気にしていなかったことがとても気になるようになりました。プロ用のレシピに書かれているミキシング時間よりもかなり長めにミキシングしないと上手く捏ねあがらないのです。ミキシングに時間がかかるのは水分量や他の配合物の計量を間違えたのか、ミキサーそのものに問題があるのか。と考えたのですが、どうもそうではないのが徐々に分かってきました。プロ用に書かれた本のレシピはかなり大量の粉を使用するもので、売れる当てもない実験用には多すぎるのでそれを何分の一かの分量でやっていました。ある日、これをいつもより多めの分量で捏ねるとレシピどおりの強さ時間でちゃんと捏ねあがりました。レシピにはミキシングの強さと時間が書いてありますが、これは目安にはなるけどあてにはならないことが分かりました。ミキシングの時間は捏ねる粉の量で流動的だし、水分量や気温によっても多少違うというのが分かりかけてきました。


3.リーンなパンに挑戦
 混ざり物が多いリッチなパンは比較的失敗が少ないがリーンなパンは難しいと聞いていたので、リーンなパンは少し慣れてから挑戦しようと思っていました。はりきって作ってみたのですが、これといった失敗もなく、あっけなくフランスパンができてしまいました。特別美味いわけでもなく、まずいこともないごく普通のものができました。以前修行に行っていたパン屋の社長はパン作りには職人はいらないという意味のことを言っていたのを思い出しました。確かに、パンには長年かけて作り上げられた基本的なレシピがあります。ですから正確な計量と温度管理、時間をしっかり守れば誰にでもできる。できて当然なのです。
 いまだにわからないことがあります。修行先の店長であるボブは私にフランスパンのクープの入れ方を教えるとき、ナイフをパンに対して垂直に深く切り込みを入れて、パンが可愛そうなくらい深く切って見本を私に見せてくれました。私が読んでいた本には浅く斜めに入れるのが基本と書いてあったのを覚えていたので、あれっと思いました。それで出来上がったパンはえげつなくえぐれて変形していました。その後私はボブの言いつけを守らず浅く斜めにクープを入れていました。そのたびにクープはもっと深く入れろと怒られ、何度教えてもわからない馬鹿なやつだと罵倒されていました。私がどう見てもこのパンの形は変だと言うと、この店にはこの店のパンの形あるの、これで私は売上を伸ばしてきた私にはその実績がある。とこうです。彼女は私にわざと間違ったことを教えていたのか、それともほんとうに自分のやり方が正しいと思っていたのか。それがわからないのです。まっ、どっちでも良いのですがクープを入れる度にボブの顔を思い出してしまうのはしゃくです。
 ともあれ、その後様々のパンを練習してみました。多少の失敗はあったものの、その原因がわからないで悩むということはなく、その問題を一つ一つ解決していくことでレパートリーを増やしていきました。


4.天然酵母.上
 いよいよ天然酵母に挑戦です。幻のパンを作るにはどうしてもいい酵母が必要です。天然酵母に関するあらゆる資料を集め、片っ端から試してみました。小麦の酵母とザワータイクの作り方を何通り試したかわからなくなるほど闇雲に試しました。それぞれ醗酵温度が微妙に違っていたり材料の分量が違います。と゛の方法も一長一短あり甲乙つけがたい、というよりは酵母ができても良い酵母か悪い酵母なのかわからないのです。良い酵母の香りをかいだことはないし、なめたこともありません。パンにしてみても、それぞれ微妙に差異はあるもののどの酵母が美味しいのか判断をつけかねます。さらに迷わせられるのは、同じ方法で作ってもどことなく以前作ったものとは違い、全く同じ物は二度とできないような気がするのです。おまけに今後、液種法が良いのか、かけ継ぎ法が良いか選択しなければなりません。結局、液種法は魅力ありますが、工房の規模や設備、人員のことを考えれば、いずれ余裕ができたらやることにしてかけ継ぎ法に絞ることにしました。
 天然酵母を作るに当たって一番厄介なのは温度管理です。温度を管理できる機器を全く持たない我工房では寒い冬や暑い夏に一定の温度を長時間維持するのは至難の業です。レーズンを使った小麦の天然酵母は25℃から30℃の間の温度を維持できれば問題ないのでそれほど苦労はしませんが、ライ麦を使ったザワータイクはそうはいきません。30℃を24時間、25℃を8時間、22℃を16時間、25℃を8時間、22℃を16時間、この22℃を16時間が一番問題なのです。この時間を日中に取ることもできるのですが次の作業のことを考えるとやはりオーバーナイトで醗酵させねばなりません。真冬に22℃の室内を夜通し保つのは至難の技です。エアコンではパワー不足ですし石油ストーブならなんとかなりますが、朝方になるとやや温度が下がり、22℃を保てなくなります。それにストーブを点けっぱなしにして、うっかり寝てしまうのは危険ですし、四六時中換気しなければなりません。空気中に浮遊する菌を捕らえにくくなるという欠点はありますが、発泡スチロールの箱に湯たんぽを入れ、その中で醗酵させることにしました。何度のお湯を何CC入れると箱内が何度になり、それを何分間保てるか。それを様々の温度で試し、データーを取りました。その結果、その日の気温にもよりますが65℃前後のお湯を入れれば箱内が22℃になり、一時間に1℃づつ下がっていくことがわかりました。箱の密閉度を高め、箱内の容積を小さくすれば温度が下がりにくくなるのではと箱の中を25mmの発泡スチロールで二重に囲んでみました。ところが、箱内の容積が全く違うので、以前とったデーターが全く役に立たないばかりか、発泡スチロールの接着に使った粘着テープの揮発成分が種に移るらしくいやな臭いがしてしまいます。結局以前使っていた箱に戻してやり直しです。
 ザワータイクを作るにあたって、30℃24時間は少量から始められるので、ほしの天然酵母の家庭用醗酵器を使うことにしました。25℃8時間は上記の発泡スチロール箱を使い、プラスマイナス1℃の誤差は勘弁してもらことにして、箱内を26℃から始めれば24℃になるまで2時間あるので、別の作業をしながら2時間おきにお湯を入れ替えるだけでできました。同様に22℃16時間もオーバーナイトで仮眠を取りながクリアしました。しかして、ザワータイクは出来上がりました。が、困ったことにそれが良いものなのかどうかはよくわからないのです。


5.天然酵母.:下
 あれほど苦労した酵母作りですが、季節が巡り暖かくなってくるととても作りやすいのです。発泡スチロールの箱も必要ありません。工房の天井付近の温度が夜明け頃に22℃になる季節がもってこいです。床下の温度が午後3時から午後5時頃の間で22℃であればもっと良し。この頃は天井付近の温度が25℃くらいのことが多いのです。ですから空気中の菌を取り込むことができるので良い酵母ができるような気がしています。富山では五月と十月がチャンスです。
 ところが、夏ともなれば大変です。25℃は涼しい日を選べは゛エアコンでなんとかなりますが、22℃はそうはいきません。夏は冬の湯たんぽの変わりに、保冷剤を使いました。また例によって様々の大きさのものを用意してデーターを取りました。箱内を21℃にできる大きさの保冷剤を探し、どの程度の時間を維持できるか試してみたら一時間で1℃上がりました。冬のお湯の変わりに二時間おきに保冷剤を取り替えました。お湯を沸かしたりしなくてもいい分仮眠を長く取れるので冬よりは楽なような気がしました。
 ザワータイクは掛け継ぎで種を維持していくので年中作り直す必要はありませんが、どんな季節に作り直さなければ成らない事態になってもなんとか作れる自信がつきました。


6.戦略
 この商売を始めるとき車を改造して移動販売で始めるつもりでいました。ところがパンのことが色々わかるようになってきたら、設備はない、冷凍生地も使わない我工房では昼前に商品を車に積んで出発するのは不可能なことがわかりました。そこで考えのたはネット販売です。焼きたてが命のパン屋に遠距離販売は向かないような気がしましたが、日持ちのするドイツパンなら何とかなると思ったのです。街のパン屋は限りなく一般的なものを店頭に並べる傾向にあります。商圏の関係で特殊なものを置いても売れないからです。ドイツパンは需要は少ないですが食べたいと思っている人はいるはずです。でも売っている店は少ない。他の小売業に比べて商圏が広いといわれているパン屋ですが商圏内ではまだまだドイツパンを食べたい人は少数でしょう。ですから、いっそのことネットで全国に商圏を広げれば売れるのではと思ったのです。
 様々の試作品を作ってみてライ麦の多いものから少ないものまで数種類の商品でいけると思っていました。でも、何か引っかかるところがありました。それは自分のやろうとしていることとは違う方向に向かって進もうとしていたからです。あの幻のパンの再現のことはすっかりどこかへ。手間のかかるドイツパンを中種法で作ると一人で作られるのは一日にせいぜい三種類くらいです。とても幻のパンの研究などできません。それに、自分が作ったドイツパンと東京の有名店から取り寄せたパンを食べ比べてもそんしょくないのですが、ネットで取り寄せても買いたいと思うほど美味しいとは思わないのです。ドイツパンは嫌いじゃありませんが好きでもない。そういう商品を売る気になれなかったのです。
 そして再び幻のパン開発への修行が始まりました。


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