パン作り奮闘記第四章

1.ルヴァン三世
 様々の素材の中からレーズンで種を起こすことに決め水、塩、レーズンそれぞれ数種類づつ用意し、実験を開始しました。しかしそれぞれの組み合わせを全部試すと膨大な数になります。そこで塩は醗酵にあまり関係なさそうなので、この段階では普通の食塩を使う事にしました。水も最初の段階では地元産のナチュラルミネラルウォーターに固定し、レーズン選びから始めました。中国産やカリフォルニア産など全部で七種類試しましたが、オーガニックレーズンと謳ってあっても全く醗酵しない偽者があったり、極めて醗酵力の弱いものもあって驚きました。農薬が使われていたのか流通の段階で殺菌されたのか原因はわかりませんがパッケージの表示は全く信用できない事がよくわかりました。ともあれ二種類のカリフォルニアレーズンを候補に残し、水の選定にかかりました。 水道水をくみ置きした水、地元産のナチュラルミネラルウォーター二種、海洋深層水三種を試しました。結局、脱塩処理した深層水に地元の湧水を加えたものを選びました。どの水もそれほど醗酵に差異はないのですか゛、この水だけは他の水と比べて明らかに酵母の元気がいいので迷うことなくこの水に決めました。
 二種のレーズンのどちらにするか随分迷いました。パンにしてもほとんど違いがわかりません。しかし二種類の種を掛け継ぎ続けるのはとても大変なのでどちらかにしなければと困っていました。そんな折、うっかり片方の種を棚から落としてしまいました。落とした瞬間は血の気が引くほどのショックでしたが、すぐにこれは神の選択だと思い直しました。これで決定、残った方を掛け継ぐことに決めました。
 しかしこの種もアルバイトなどで掛け継ぎ不可能な状況が二度あり、現在(2002年9月)掛け継いでいるものは我工房三番目の種です。ルヴァン(levain)とは醗酵種のことです。それでこの種で作ったパンをルヴァン三世と名付けました。この種は掛け継ぎ始めて一年半になります。彼(種)は掛け継ぎ始めて四ヶ月目に劇的な変化を見せました。味ががらりと変わったのです。それまでとは違い旨みが加わったというか、まろやかな味になりました。


2.開店 
 店がないのに開店ですまずは保健所へ行き、施設の営業許可の申請と食品衛生責任者の講習申し込みをしました。その際、役所に提出する書類に店名又は屋号を記入するところがありました。ところがまだ店名を決めていませんでした。カミさんがこげパン屋とか黒焦げパン屋をドイツ語にしたらと言っていたので辞書で調べていました。BRANDFLECK BÄCKER(ブラントフレック ベッカー)です。でもこれがドイツ語として正しいのかどうか分からないから、ちゃんと調べてから決定しようと思っていました。ところが、今、書類に記入して提出しないと開店できる日がかなりずれ込んでしまいます。電話して誰かに教えてもらおうかとも思いましたが知合いにはドイツ語が分かる人はいません。しょうがなくそのまま記入して提出しました。間違ったドイツ語であってもいいや、もしドイツ語としてへんだと言われればドイツ語じゃないと言えばいいと訳のわからない言い訳を自分自身にしていました。
 無事、お役所から許可が下りました。施設の営業許可は通常三年から四年なのですが、我工房は富山では最長の七年の長期の許可が下りました。
 開店とはいうものの店がないし、宣伝広告活動しません。友人、知人、近所の人にパンを配っただけです。それでも口コミでじわりじわりと広がり、ぽつりぽつりとお客さんがみえるようになりました。


3.長期戦
 塩の選定には随分悩みました。最初の頃は塩事業センターの食塩を使っていましたが、この塩にはとても不満がありました。なんとかいい塩を見つけようと躍起になっていました。用意した塩は十種類を超えました。日本製は赤穂の粗塩、伯方の塩二種、沖縄の塩、海洋深層水から作った塩二種、外国製のものはフランス、イタリア、オーストラリア、モンゴルと海水から作ったものから岩塩製のもまで様々です。塩事業センターの食塩と他のものとは明らかに違いが分かります。塩事業センターの方はなんとなく味気ないのですが他のものは味わいがあります。しかしどの塩がいいのかとなると迷ってしまいます。塩だけをなめてみると確かにそれぞれの違いが分かるのですがパンにするとほとんどその違いが分からなくなるのです。そうこうしているうちに、それぞれの塩のブレンドを始めてしまいました。その種類は天文学的数字になります。こうなるともう塩を作っているのかパンを作っているのか分からなくなってきました。迷い始めるときりがありません。そんな中、偶然にも赤穂の粗塩とモンゴルの岩塩を半々混ぜたときわりといい感じになりました。日本とモンゴルでウラル-アルタイ語族ラインだと言いながら混ぜていました。ふと、昔々の太古のご先祖様もユーラシア大陸にいた頃このモンゴルの塩をなめていたかもしれないと思いました。現在使用しているのがブレンドしたこの塩です。これも暫定的なもので一生よりいいものがないのか探しつづけなければならないのでしょう。


4.ザワータイク
 ザワータイクの掛け継ぎは四ヶ月までで、四ヶ月経ったら作り直しましょう。と書かれた本が随分あります。私は本に書かれたとおり四カ月おきに作り直していました。しかし、本場ドイツでは十八世紀以来お城にパンを納めていたころから二度の大戦も潜り抜け、未だに掛け継ぎ続けているザワータイクを使用しているパン屋さんがあるというのを目にしました。そんな折、ザワータイクは四ヶ月経った頃からようやく醗酵力が強くなって安定し、六ヶ月でやっと一人前だという本も見つけました。どちらがほんとうなのか分からなくなってしまいました。
 ドイツではどうなのだろうと調べてみたら、本場ではサ゛ワータイクはスーパーマーケットでも簡単に入手できるようです。ですから、一般の人が気軽に家庭でライ麦パンを作っているようです。そんな反面、街の小さな個人経営のパン屋では自家製のザワータイクを使っている店はほとんどなくなってしまったらしいのです。冷蔵庫から出せばすぐ使用可能なザワータイクが定期的に業者が持ってくるそうです。その方が労働時間の短縮になるし、不安定な種に気を配らなくてもいいのでパン屋さんは楽なのですが、工場で純粋培養されたザワータイクではどこのパン屋もおんなじ味になってしまいます。そのせいもあってかドイツではパンが昔のように美味くなくなったと評判が悪いようです。売上も激減しているようです。
 さて、我工房では八ヶ月掛け継ぎを続けたザワータイクをどうしようかまよっていました。新しく起こした種と比べても両者どちらもそれぞれ良いところがあって甲乙付けがたいのです。いろんな人に食べ比べてもらっても、分からないという人と前者がいいという人と後者がいいという人と同数くらいになりました。確かに古いほうの種はやや酸味が強いのですが、旨みが出ます。新しい方はさっぱりしたピュアな感じがします。どちらも良いのですが、何時までも両方を掛け継ぎ続けるのは大変です。結局、迷いにまよったあげく、新しい方を残しました。この方が幻のパンに近いような気がしたからです。我工房では半年おきにザワータイクを作り変えることにしました。


5.迷路
 厳密にいうと、全く同じ条件ではパンを作られません。気温、湿度、材料の品質、その他の条件が全く同じということはありえないからです。毎日最上のものを作るために様々の工夫をしているのですが、時としてそれが裏目にでることもあります。ですからその日によって80点の日もあれば40点くらいの日もあってなさけない思いもします。毎日使う粉はもちろんのこと、レーズンやナッツ、白エビ、昆布、それぞれ同じ物を注文しても同じ品質のものはまず入手できません。それをどうやりくりして最上のものに仕上げるか毎日が勝負です。時として、良くしようとした努力が裏目にでて悪い方悪い方へと行くこともあります。そんな時は迷路にはまり込んだような閉塞感に襲われます。
 パンのできが良くないとき、いくつかその原因が考えられます。本来ならばその原因と思われる条件を一つ一つ変えて何が原因なのかをつきとめるべきなのですが、原因が何通りも考えられる場合そのすべての要因を一度に改善しなけりば、翌日のパンも失敗する可能性があります。ですから何故失敗したのか、本当の原因は分からずじまいの事が多いのです。
 美味しいパンのレシピはいたるところにあふれています。しかも材料の重さ、醗酵温度、湿度、捏ね上げ温度、それぞれに必要な時間がすべて数値で表されています。ですから、誰にでも簡単にできるような気がしてしまいます。ところが実際は触った感触とか見た目、匂いなどを頼りに経験から判断を下さないとどうにもならない部分がとても多いのです。経験を積めば積むほどその傾向が強くなり、数値は目安にはなりますが、あてにはならなくなってきました。
 究極の目標が遥か彼方へ遠ざかったり近くなったりします。いつかは結実する日が来ること信じて日々精進するしかありません


6.感動
 友人の奥さんが近所の教会で開かれている英会話教室に通っています。彼女はある日いつもより早めに出かけたところ、牧師さんはまだ昼食中でした。彼はなにやらパンにペースト状のものをぬって頬張っています。そのパンを良く見たところ見覚えのある昆布パンのようです。彼女は牧師さんにそのパンを何処で入手したのか尋ねようと思ったとき。彼が言いました。「日本に来て初めて美味しいパンにめぐり会いました」そしてそのパンを勧められたそうです。彼女は我工房が開店したころから当工房のパンをいろんな人に勧めてくれていました。その彼女がパンを勧められてとても嬉しかったし、カナダ人が日本の昆布パンを食べて美味しいと言っている光景が不思議に感じた。と私に教えてくれました。感動しました。パンを作ってて良かったと思いました。


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