パン作り奮闘記.第一章

1.出会い

 もう二十年も前の出張先の京都でのことです。私はとても美味しいパンに出会いました。知人からもらったそのパンはパリパリのクラストがとても香ばしく、少しもっちりとした感じのクラムで、どっしりとしたパンでした。噛めば噛むほど美味しさが口の中に広がり、おなかのすいていた私はいっぺんにそのバンのとりこになってしまいました。当時はパンに関する知識も無く、それほどパンが好きでもなかった私はそのパンの希少性を全く認識していませんでした。東京へ帰ったら、どこかのパン屋であんなパンを買ってこようと軽く考えていたのです。


2.決意

 東京に帰り、通常の生活に戻ってパンを食べる度に「あのパンは美味しかったなあ」と頭のスミで考えるようになっていました。何時しか、パン屋を見つける度にあのパンがないものかと店内を探す。時折、似たようなパンを見つけるのですが、あまり美味しくない。とはいっても釈迦利器になってあのパンを探していたわけではなく、パンをもらった京都の知人に会ってもパンのことを尋ねることありませんでした。
 あのパンに出会って三年ほど経った頃には、東京近辺にはあんなパンを作っているところは無いだろうと思い始めました。そんな折、上京していた京都の知人から「美味しいパンが無くなった」という台詞を聞きました。その時初めて分かったのですが、なんでも、あのパンを作っていたのは京都ではなく神戸のパン屋で、もう店がなくなってしまったとのこと。そのとたん何が何でもあのパンを食べてみたい
という思いがふつふつと込み上げてきました。もう手に入らないとなると余計に食べてみたくなる困った性格の私は、それならば自分が作ってみようと考えてしまいました。
 あちこちのパンを食べていたおかげで例のパンはどんなタイプのパンでどういう原料を使っていたのかは大体分かるようになっていました。しかしながら、様々なことに手を染めて遊びまわっていた当時の私はパンを作っている暇など無く、美味しいパンを作るという決意だけで全く実行に移されることなく十年程の月日が流れてしまいました。


3.妄想と現実 
 郷里の富山に帰り、家業の薬屋を手伝い、結婚をし、子供ができ、すっかり落ち着き、平凡な日々を過ごしていました。でもいつかパン屋になるんだ、パン屋になってあの美味しいパンを作るんだ。そうすることで単調な日々から脱出でき、明るい未来が訪れるという妄想を抱いていました。幼い頃から現実逃避型の思考回路の私はどうしてこんな平和な時代に生まれたのだろうと嘆くようなところがあります。戦国時代や幕末に生きていたらもっと自分を発揮できただろうにと考えてしまう困った性格なのです。
 ともあれ、単調な日々ながらもパンやケーキを作ったりしては、将来に備えて練習していました。ケーキはそれなりにできるのですが、パンはどうもうまくいきません。とても食えたものじゃないものばかり作っていました。


4.行動開始
 結婚して五年目の年、知人の紹介で富山県内に十数店のストアインストア型の店舗をもつパン屋に見習いに入りました。給料なし、期間半年、という条件で受け入れてもらいました。ここの社長はパン作りに職人はいらない。ちょっと練習すれば誰にでもできることを何年も修行する必要は無いというのです。さらに、もし店を開くにしてもこの不況下では路面店で勝負するのは難しい、ストアインストア型でないとやっていけないだろう。と言うのです。しかも半年後に開店予定の店舗があるから私にやってみないかと。よほど人材が不足しているのか、いい加減な話なのか、ともあれ早くパンの作り方を教えてもらいたい私はどういう形で店を開くか分からないが、ともかくパン作りを教えて欲しいということで見習いに入ることになりました。


5.短い修行
 私が修行に入った店はスーパーマーケットの中の一角に店を構えるいわゆるストアインストア型のパン屋です。従業員は五、六人で全員が女性でそのうち社員が二、三人であとはアルバイトとパートの人です。私の勤務時間は朝七時から夜八時まで。第一日目の私に課せられた仕事は見学です。私にこの見学というありがたい仕事をくれた店長に私は密かにあだ名を付けました。ボブです。もちろん女性なのですが体格といい、物腰いい、ピッタリのネーミングだと悦に入ってほくそ笑んでいました。今日一日何もしないで見ててください、といわれてもこんなに長い時間何もしないで見ているというのはちょっと辛いものがあります。少しでも経験のある人ならば見るだけでも何を吸収すればよいか見るべきポイントが分かると思うのですが、何もわからない私にとって長時間ただ突っ立っているだけというのは拷問に近いものがあります。洗い物でもいいから何かやらせて欲しいと頼んだのですが、かなえられず一日中立ちっぱなしで修行第一日目が終わってしまいました。なんでも吸収してやろうと張り切って出かけたのに無駄に一日過ごしたという思いだけが残りました。
 ボーッとした一日でしたが、一つ課題というか問題点を見つけました。途中に一時間ほど休憩がありますが、勤務時間が長すぎて集中力を維持できません。だらけた気持ちでパンを作ってもいいものができないような気がします。強い集中力が必要な局面と少し気を抜いてもいい場合とをよく見極め、バランスをとって働かないととてもやっていけないと感じました。


6.丸め
 昨今のほとんどのパン屋がそうであるように、このパン屋も扱っている大部分のパンは冷凍生地で作られています。大型パンの食パンやフランスパンは粉から捏ねているのですが、その他の生地は本部からトラックで運ばれ大型冷凍庫にストックされています。その生地は50g程度に分割され丸く丸められています。この冷凍生地がパン屋の仕事を革命的に買えたそうです。パン屋といえば朝早くから重労働を長時間強いられるとうイメージがありますが、今は昔と比べれば随分楽になったみたいです。冷凍生地を成形(あんこを入れたり、切込みを入れたりして形を整える)し、最終醗酵して後は焼くだけですし、この成形した生地をドゥーコントローラーという機械に入れ、タイマーをセットしておけば翌朝焼ける状態になっているという便利なものです。ですから、昔のように朝早くから仕事する必要が無いのです。
 ところで、パンを作る際に「丸め」という作業があります。丸めは生地を成形する前や冷凍する前などに行う作業の一つで、醗酵してガスで膨らんだ生地を締めて表面を張らせることを言います。私はこの作業がなかなか上手くできなくてなさけない思いをしました。どちらかというと私は手先が器用な方だと思っていたのに、それができない。しかもバイトのお姉ちゃん達はすばやく上手にてきぱきやってのける。なのに自分が上手くできないことにあせりを感じ更にできなくなる。という具合です。なんとか練習してみたいのですが、生地はすべてこれから商品に生まれ変るもので余分なものはありませんし、店に並べる商品を刻々と作りつづけなければならないお姉ちゃんたちも、ドンくさいおっさんに手取り足取り教えている暇もありません。ですから、通常の作業の流れの中でなんとか盗み取ろうと必死でした。ですからボブから丸めの作業を仰せつかった時はとてもへんな気持ちでした。練習できるという嬉しさと上手くできない焦りが入り混じった複雑な心境で、どぎまぎしていました。修行に入って一週間ほど経った頃、社長から直接ちょっとしたコツを教えてもらってからはなんなくできるようになりましたが、こんなことでこの先パン屋になれるのかと随分不安を感じていました。
 


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